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東京地方裁判所 昭和29年(ワ)4218号 判決 1957年4月25日

原告 若杉鉄次

被告 国

訴訟代理人 堀内恒雄 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人等は「被告は原告に対し金六二万二、四〇〇円及びこれに対する昭和二九年六月五日から右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、

一、原告は昭和二四年四月初旬被告から別紙物件目録記載の土地(以下本件土地という。)を代金一万七、四二七円二〇銭で買受ける契約をなし、昭和二七年一〇月二日右代金を完納した

二、ところが被告は昭和二四年三月三一日訴外佐野トシに対し本件土地を売渡し、昭和二五年七月七日同人のために所有権移転登記を経由した。

三、その結果原告被告間の本件土地の売買契約は被告の責に帰すべき事由によつて履行不能となつたので、原告は昭和二九年六月四日被告に送達された本件訴状によつて右売買契約を解除する旨の意思表示をした。

四、それ故に被告は原告に対し右契約解除による原状回復義務の履行としてさきに原告が支払つた代金一万七、四二七円二〇銭を返還すべき義務があるほか、右被告の債務不履行によつて原告の被つた損害を賠償すべき義務がある。しかしてその賠償額は次に述べる理由により本件土地の時価をもつてその算定の基準とすべきところ、本件土地の時価は一坪当り金二万円合計金六二万二、四〇〇円であるから、右時価より原告が返還を求める代金相当額である金一万七、四二七円二〇銭を控除した残金六〇万四、九七二円八〇銭をもつて被告の債務不履行によつて原告の被つた損害としなければならない。しかして原告が本件土地の時価をもつて損害額を定むべきものとなす理由は次のとおりである。

(一)  原告は大正一四年一二月から昭和二〇年四月罹災するまで当時の所有者訴外鈴木トヨから本件土地を賃借し、その上に家屋を所有し家族とともに居住していた関係から引続き本件土地に家屋を所有して居住する目的で本件土地払下の申請をしたのであり、他に転売する等の目的で払下の申請をしたのではない。しかして被告も右事情を了承して原告に対して売払う旨の決定をしたものである。従つて原告が現在において他より本件土地と同等の土地を買い求めるに足りる額すなわち本件土地の現時の価格をもつて本件損害賠償の額としなければ、原告が被つた一切の損害の填補とはなりえない。

(二)  仮りに右主張が認められないとしても、本件においては被告は自ら履行不能の状態を作り出したのであるから、速かに右事実を原告に通知してもつて原告が速かに権利回復に必要な措置をとりうるようにする信義則上の義務がある。しかるに被告は右通知を怠り、原告は昭和二九年四月頃まで右事実を知らず、これを知るに及んでただちに本訴を提起したのであるが、その間地価が騰貴し、履行不能時に比し著しく損害が増大したのである。そして原告には右事実を知らなかつたことにつき何の過失もない。従つてかかる場合においては増大した損害は、被告が信義則上負担すべき右通知義務を怠つたことに起因するものであるから、契約当時当事者が予見し得たと否とにかかわらず、すべて被告に負担させるのが当事者間の信義衡平に合するゆえんである。この意味においても本件損害賠償の額は本件土地の現時の価格によるべきである。

(三)  仮に通常生ずべき損害の賠償としては本件土地の履行不能時における価格を基準とすべきものとしても、本件売買契約成立当時地価は既に騰貴のすう勢にあり、被告も土地売払価格の算定にあたり右地価騰貴の事情を勘案してその価格を決定しており、また当時地価が騰貴しつつあつたことは公知の事実であつた。被告は本件契約締結に当り地価騰貴の事情を充分知り、従つて本件土地の地価が今日のように騰貴することを当時充分予見しうる状況にあつたのであるから、被告はその予見しうべき特別事情である本件土地の価格騰貴により原告に生じた損害を含めて賠償すべきであり、この意味においても損害賠償額は本件土地の現時の価格によるべきである。

五、よつて原告は被告に対し右金一万七、四二七円二〇銭及び損害金六〇万四、九七二円八〇銭以上合計金六二万二、四〇〇円及びこれに対する本件訴状が被告に送達された日の翌日である昭和二九年六月五日以降右完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴に及ぶ。

と述べ、

被告の自白の撤回につき異議がある。また右自白の撤回は時機に後れてなされたものであるから許さるべきでないと述べ、被告の反対主張に対し次のとおり述べた。

一の事実中原告が被告主張の日本件土地払下の申請をなし(売買契約の申込に当る。)被告がその主張の日原告に対し本件土地を売払う旨の内部的意思決定をしたこと(原告の申込に対する承諾の意思決定に当る。)、被告がその主張の日時訴外戸嶋忠光をしてその旨原告に通知させたこと(承諾の意思表示の到達に当る。)は認める。被告は、原告に対し右のように使者である訴外戸嶋をして本件土地売払の意思を伝達させたばかりでなく、昭和二四年四月上旬頃原告に対し直接本件土地の売払の通知をしたのであつて、いづれにしても売買契約は成立している。また本件土地の売買契約において契約書が作成されなかつたことは認めるが、原告は訴外戸嶋に対し契約書の調印を拒否したことはないし、払下申請を撤回したこともない。その余の事実は争う。二の事実は争う。なるほど予算決算及び会計令第六八条は国の職員が契約をしようとするときは契約書を作成すべきことを命じているが、これは国の会計事務処理を明確にして疑点を残さないようにするための事務処理の準則を定めたのであつて、契約書が作成されない場合には契約が成立しないことを定めたものではない。三及び四の事実はいづれも争うと述べ、

被告指定代理人等は、主文同旨の判沢を求め、答弁として、原告主張の一の事実中原告が昭和二七年一〇月二日金一万七、四二七円二〇銭を支払つたことは認めるが、その余の事実は否認する。もつとも原告が昭和二四年一月一五日被告に対し本件土地の払下を申請したことはあるが、これについては後に述べるように原告被告間に売買契約が成立するに至らなかつた。二の事実は認める。三及び四の事実はいづれもこれを争う。被告は昭和二九年七月九日及び昭和三〇年三月二四日の本件口頭弁論期日において、「昭和二四年三月三〇日原告被告間に本件土地につき原告主張のような売買契約が成立した」ことを自白したが、これは次に述べるように真実に反し、被告の錯誤に基いてなされたものであるから、これを撤回する。しかして右自白の撤回はそのなされた訴訟の段階において、訴訟の完結を特に遅延させるものではないから、時機に後れたものということはできないと述べ、

反対主張として次のとおり述べた。

一  本件土地は財産税の物納により被告の所有となつた土地であるが、被告は物納による土地払下義務を不動産会社等に委託して行つていたところ、原告は右受託会社の一である訴外都不動産株式会社(以下訴外会社という。)を通じて昭和二四年一月一五日被告に対し本件土地の払下を申請した。そこで被告は同年三月三〇日本件土地を原告に対して払下くべく内部的意思を決定し、その旨を訴外会社に通知し契約事務を依頼した。その結果訴外会社の職員訴外戸嶋忠光は同年四月上旬頃売買契約書用紙と被告発行の代金の納入告知書とを持つて原告方を訪れ、契約書に調印を求めたところ、原告は現在家を持つており、金もないから本件土地払下の意思がない旨を告げて払下申請を撤回し、契約書に調印することを拒否したので、訴外戸嶋は被告の物納財産払下事務の所管部局である関東財務局の担当職員に対しその旨を報告して納入告知書を返還した。そこで同局においては原告の払下申請の撤回を承認し契約を不成立としたのである。

これが原告と被告との間の本件土地払下に関する交渉の経過であつて、売買契約は成立するに至らなかつたものである。

二  また予算決算及び会計令第六八条において官庁が契約をしようとするときは契約書を作成しなければならないとされているので、官庁が同条に基き契約書案を作成し、相手方に対して調印を求める場合においては、契約書の調印がなされて始めて契約が成立し、それまでの交渉は契約の準備段階であると解すべきものである。そして本件の場合、原告の本件土地払下申請には買受価格につき御指定通りとあるから、これをもつて売買契約の申込と解すべきではなく、関東財務局において価格を定め、これを売買契約書案に記載し原告に調印を求めたとき被告の原告に対する新な申込がなされたものと解すべきであつて、原告はこれに対し調印を拒絶したものであるから、本件契約は成立に至らなかつたのである。若しまた仮に関東財務局が原告主張のように直接原告に対し本件土地売払の承諾の通知をしたとしても右承諾の通知は契約書に原告が調印すべきことを条件としてなされたものと解すべきであつて、原告が契約書に調印しなかつた以上、契約は成立していないのである。

三  仮に原告と被告との間に売買契約が成立したとしても、およそ国の職員が契約をなすに当つて作成される契約書は契約が存続するための必要条件であると解するのが相当であるから、契約が成立しても契約書が作成されなかつたときは、これにより一たん成立した契約は失効するものといわなければならない。本件においては原告が本件土地の売買契約書に調印することを拒否したことにより契約書が作成されなかつたのであるから、これにより売買契約は失効したものといわなければならない。

四  仮に以上の主張が認められないとしても、不動産の売買においては売主が第三者に目的物を二重に売り、その登記を経由した場合には、売主の債務は買主に対する関係では右登記がなされたとき履行不能となり、そのときに買主の目的物引渡請求権は填補賠償請求権に転換するものと解すべきであるから、かかる場合における損害賠償の額は右履行不能時における目的物の価格を基準として算定すべきものである。

本件において被告の本件土地所有権移転債務が履行不能となつた時期は、被告が訴外佐野トシのため本件土地所有権移転登記を了した昭和二五年七月七日であるから、右履行不能による損害賠償の額も同日における本件土地の価格によるべきである。

しかるに原告は本件土地の現時の価格を基準として賠償を求めるものであるから、原告の請求額のうち、本件土地の右履行不能時における価格を超える部分は失当である。

以上のとおり述べた。

立証<省略>

理由

原告が昭和二四年一月一五日被告に対し別紙物件目録記載の土地(以下本件土地という。)の払下を申請したこと、被告が同年三月三〇日原告に対し本件土地を売払う旨の内部的意思決定をしたことは当事者間に争がなく、被告が昭和二九年七月九日及び昭和三〇年三月二四日の本件口頭弁論期日において、右によつて原告被告間に本件土地売買契約が成立したことを自白したことは被告の認めて争わないところである。

よつて被告の右売買契約成立についての右自白の撤回の点について考えるに、証人千品ツネの証言によつてその成立を認めうる乙第七号証、証人戸嶋忠光、同伊賀輝吉の各証言、証人伊賀輝吉の証言によつてその成立を認めうる乙第一三号証の一、二を綜合すると、本件土地は東京都大田区大森四丁目二八七番の一宅地六三坪三合七勺の一部であつて、右土地はもと訴外鈴木トヨの所有であつたが、同人の財産税の物納により被告の所有となり、その売払は大蔵省関東財務局が所管していたこと、関東財務局は物納財産売払については東京都内の八不動産会社にその事務を委託していたところ、受託会社の一である訴外都不動産株式会社(以下訴外会社という。)が原告と本件土地の売払について交渉し、前段認定のように原告から本件土地の払下の申請がなされ、被告は昭和二四年三月三〇日売払決議書により原告に対し売払の内部的意思を決定し、訴外会社に対しその旨を通知して契約事務を依頼するとともにあらかじめ同年四月一日代金徴収決定をなし同月三〇日を納期とする納入告知書を発行送付し、訴外会社はその職員で本件土地売払について原告と交渉した訴外戸嶋忠光に対し契約書用紙及び納入告知書を原告方に持参して契約締結の事務をなすことを命じたこと及び訴外戸嶋は同年四月上旬原告方に赴き被告において原告に対し本件土地を代金一万七、四二七円二〇銭で売払う意思のあることを伝え、契約書に調印することを求めたところ、原告は金の都合がつかず、かつ、土地を買うべき時期でもないから前記払下申請は撤回するといつて、契約書に調印することを拒否したので、訴外戸嶋は原告に対し契約書用紙も納入告知書も交付せずしてその旨を関東財務局の担当官に報告し、納入告知書を返還し、同担当官から払下申請取消の承認を受けたことを認めることができ(右認定に反する原告本人尋問の結果は信用できない。)また成立に争がない乙第二号証、証人戸嶋忠光の証言、同証言によつてその成立を認めうる同第九号証、同第八号証の存在とを綜合すると、原告が本件土地の払下申請をなすに当つて原告と被告との間には本件土地の所在、種目、数量、価格、原告において本件土地が被告の所有となつた昭和二三年四月一二日以降被告が指定する払下代金納付期日までの賃料相当の弁債金及び代金納付期日以降日歩二銭七厘の延滞金を支払うことについて諒解がなされていたこと、本件土地の売払については関東財務局は予算、決算及び会計令第六八条の規定の定めるところにより国有財産売買契約書を作成して売買契約を締結しようとしたものであり、訴外戸嶋が昭和二四年四月上旬契約締結のため原告方に持参した契約書用紙には関東財務局より指示された条項が記載してあり、二の条項は乙第八号証の契約書の条項とほぼ同一であつたこと及び同号証には契約条項として原告と被告との間の前記諒解事項に相当するもののほか、売買物件の引渡時期、契約解除に関する事項、契約解除によつて生じた損害について、その額を被告において一方的に決定しうる権限を有すること、所有権移転の嘱託登記に関する事項等が定められていることが認められる。

以上認定の事実によつて考察すれば、原告の被告に対する本件土地の払下の申請はこれを売買契約の申込と解しうるし、被告が本件土地を原告に対して売払う意思を有していたことは明であるが、国有財産売買契約書の内容が原告の払下申請のときまでに原告被告間に諒解されていた事項以外の事項に亘つており、予算決算及び会計令第六八条の規定による契約書は契約成立の要件ではなく、契約成立の証憑にすぎないことは明であるが、被告においては同規定に則つて右契約書を作成して本件土地の売貿契約を締結する意思を有していたものであるから、被告のなした原告に対する本件土地売払の内部意思の決定は、右契約書の各条項を原告において承認し、かつ、契約書に調印することを条件としたものであると解するのが相当であり、従つて訴外戸嶋が被告に売払の意思のあることを伝達したことは、とりもなおさず、右条件付承諾の意思表示を伝達したものと解するほかはなく、これをもつて原告主張のように直ちに原告の払下申請に対する承諾の意思表示の伝達と解することは困難であり、しかも原告は契約書に調印することを拒否し、本件土地払下申請の撤回の意思表示をなし、訴外戸嶋において関東財務局担当官にこれを伝達したものであるから、右払下申請の撤回は効力を生じ、売買契約は成立するに至らなかつたものといわなければならない。

もつとも原告は昭和二四年四月初旬関東財務局から直接本件土地払下承諾の通知を受けたと主張するが、これに副う原告本人尋問の結果は前段認定の事実に照して到底信用し難く、原告の右主張を容れる余地はない。

また原告が昭和二七年一〇月二日本件土地代金一万七、四二七円二〇銭を納入したことは当事者間に争がなく、成立に争がない甲第一、第二、第四、第五号証、乙第三号証及び原告本人尋問の結果の一部を綜合すると、その後関東財務局においては本件土地代金及び地代の納入方を督促したので、原告においては右代金を納入したほか、昭和二九年一月二〇日地代として金二〇〇円を納入したことが認められるが、前出の乙第九号証、同第一二号証の一、二、証人伊賀輝吉の証言及び同証言によつてその成立を認めうる乙第一三号証ないし同第一五号証の各一、二を綜合すると、前段認定のように関東財務局においては、昭和二四年三月三〇日売払決議書により本件土地を原告に売払う旨の内部意思を決定し、同年四月一日あらかじめ代金徴収決定をなし、納入告知書を発行したにもかかわらず、契約は原告の払下申請の撤回により成立するに至らなかつたのであるが、右売払決議書は取消の処置がとられずそのまま保管され、また昭和二四年度の物納財産売払代金徴収決定簿には右徴収決定の事実が記載されたまま取消処置が講ぜられていなかつた結果、情を知らない関東財務局の担当官は契約が成立したものと誤信して関係帳簿及び繰越帳簿にそれぞれ未済のものとして登載し、これに基き原告に対し代金及び地代の納入を督促したため、原告において前記認定の如き納入をなしたものであることを窺い知るに難くないから、右は関東財務局の事務の手違によるものであると考えられ、右代金及び地代の納入の事実をもつて本件土地の売買契約が成立したことを推断することは困難であり、その他被告提出援用にかかる全立証によるも前記認定を覆えし、本件土地売買契約の成立を認めるに足りない。

してみれば、被告のなした本件土地の売買契約が成立したことの自白は明に真実に反するものといわなければならないし、被告が本件土地売買契約について原告と交渉した訴外戸嶋忠光につきこの間の事情をはじめて聴取したのは右自白をした後の昭和三〇年六月一三日であることは証人戸嶋忠光の証言によつて明白であるから、被告のなした右事実に反する自白は錯誤によつてなされたものと認めるに充分であり、右自白の撤回が訴外戸嶋より右事情を聴取した直後の昭和三〇年七月五日の口頭弁論期日においてなされたことは当裁判所に顕著な事実であるから、右自白の撤回が被告の故意又は重大な過失によつて時機に後れてなされたものとは認められない。従つて被告のなした右自白の撤回は有効である。

しからば被告が本件土地を訴外佐野トシに売渡したとしても被告が原告に対し債務不履行の責任を負うべきではずがなく、解除すべ契約も存在しない。

従つて契約解除による原状回復義務の履行として代金の返還を求めるとともに債務不履行を理由として損害賠償を求める原告の本訴は理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 守田直)

物件目録<省略>

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